39.平塚柔道物語・その39
自己の目標と「つとめればは必ず達す」の精神 東海大学柔道部前監督中西英敏教授
東海大学男子柔道部の前監督中西英敏教授は、平塚市内の北金目に、自宅とともに柔道場を完成させた。
柔道部の選手寮に住み込んで長年指導に当たった熱血漢は、第一線を退いたことをキッカケに、自分の城を建設したのであった。
平成20年秋のことである。
奥さんも全日本女子柔道体重別選手権で2回優勝(56kg以下級)の経歴を持つ、夫婦揃って柔道家である。
木の香り漂う50畳の道場は「直心館」と命名された。
中西さんは、昭和33年福岡県生まれ、小学校4年から柔道を始めた。高校は東海大第五高で、3人の先生から指導を受け、
心から柔道が好きになったという。
しかし、悔しかったことは、県大会で優勝にもう一歩というところでいつも振るわず、全国大会に出場できなかったことだ。
もっと強くなりたいと、東海大学に入学する。
その年は、ひとつ先輩の山下泰裕さんが全日本選手権大会で初優勝。全日本学生優勝大会も優勝し、
東海大学柔道部黄金時代の幕開けであった。また、先輩の山下さんはじめ、OBの柏木さん、香月さんなどが、
世界選手権やオリンピックをめざしている真っ最中であり、先輩方の凄まじい稽古への取組みと気迫、目標への執念などは、
中西さんにとって、大きな刺激となり学ぶことが多かった。
特に、目標を持つことの大切さを知り、3つのことを心に誓った。ひとつは、東海大学柔道部の中で、
団体戦代表7人に選ばれること。2つ目は、71kg以下級全日本体重別チャンピオンになること。
3つ目は、無差別の全日本選手権大会に出場したいということであった。
中西さんは、「柔道の修行・練習は大変厳しいもの。何度か挫折しかけたり、自信をなくしたときもあったが、
それを奮い起こさせてくれたものは、自分が掲げた目標であり、『力(つと)めれば必ず達す』(嘉納治五郎の言葉)
の精神であった。」と現在語っている。
大学3年生になった時に1つ目の目標を達成した。さらにソ連国際大会に出場するチャンスを得たのである。
中西さんは初めて体験する国際大会でいかんなく力を発揮した。準決勝まで見事に勝ち進み、
決勝の相手はナムガシウリという力の強いソ連の選手であった。中西さんははじめから積極的に攻めていったのである。
ところがあと少しで優勢勝ちかと思われた時、帯び取り返しで真っ逆様に投げられ、それが一本となってしまった。
このような経験は初めてであったが、その時の悔しさは今でも忘れないという。この体験が、中西さんにとって大きな教訓と、
人生の転機となっていった。
もう少し頑張れば自分も世界を狙えるのではないかというひそかな自信。と同時に、
「世界を狙うには同じ失敗を2度と繰り返してはならない」という自分へのいましめであった。
そして、世界の様々なスタイルの柔道についての研究や工夫が絶対必要であることを、身をもって痛感したのである。
−以下次号−
写真は、山下師範と中西監督
平成16年の全日本学生柔道優勝大会で東海大の優勝決定の瞬間
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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