36.平塚柔道物語・その36
「古くて新しい空手」を開発した清武会代表の西田幸夫氏
極真空手清武会の西田幸夫氏(平塚市袖ケ浜)は25歳にして、第6回全日本の大会で4位入賞し、
翌年1974年の第1回世界大会の代表のひとりに選ばれた。
彼は世界大会に備えて集中的にウエイトトレーニングを行い、自分自身としてはかなり高いレベルにまで持っていったという。
そこへ大山倍達館長から「ニューヨークに行って来い」と本部の直弟子8人に命令が下った。
当時、ニューヨークには、ウイリー、チャールズ、ギャリーなど、2mを越す大きな選手が育っていた。
彼らは世界大会では「上位を独占する」と豪語していたという。そこでその天狗の鼻をへし折って来いということであった。
実際には、どの程度の実力があるのか掌握するのが狙いだった。しかし、現地に行ってみて驚いた。
初めての練習試合から殺気が感じられ、ニューヨークと日本との対決という緊迫した空気であった。
西田氏の172cm、75kgに対して、熊殺し(実際にクマと対決して倒した)のウイリー・ウイリアムスという選手は
2m15cmの大男であった。その巨体から来るものすごいパンチを、西田氏は両腕でしっかりと受け止めた。
しかし、あまりのパンチの強さのために、腰までズシッと響いたという。
こちらの鍛え方のレベルはかなり高いと思ったが、それが全く通用しない人間がいるのだという現実に直面したのであった。
体の作りが全然違うのである。
西田氏は「日本では組み手をやっても怖いという感覚はなかったが、ニューヨークで初めて恐怖感や圧迫感というものを
覚えた」という。「剛に対しては剛」という今までの極真空手の方法では、鍛え抜いた大男達のレベルでは太刀打ちできない
ことを実感した。
これが西田氏のその後の運命に重要な転機となって行ったのである。幸いにもニューヨークの選手達に、
まだ知られていない技もあり、何とか本部の面目は保つことができ、世界大会でも日本が勝つことができた。
西田氏は帰国してから、剛に対する研究に没頭した。剛に対しては柔という対応を考え出して行ったのである。
相手とまともにぶつからず、回り込むという手法や、円の原理を活用することを考えた。そのような方法は、
合気道や合気柔術、中国武術から学んでいったのである。
昭和30年代後半、身長2mのオランダのヘーシンクという柔道家に初めて日本は負けてしまったが、
同じ課題と言えるのではないか。
柔道の名人と言われた故三船久蔵十段は自著の中で、「柔道は単に相手の力を利用して勝を制するよりも、
むしろ一層相手の力を無効ならしめるような自己の動きによって、不用の労を為さずにおのずから勝ちを見出すのである」
と述べており、西田理論と重なるのである。
このように、西田氏は今までの極真空手にはなかった分野を開発し、生涯武道、生涯空手の稽古体系と方法論を
構築していったのである。
それは、「古くて新しい空手」ともいえよう。
写真は、第6回全日本大会での西田氏
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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