35.平塚柔道物語・その35
極真空手大山館長と直弟子の清武会代表 西田幸夫氏
極真空手のロシア・グルジアの少年と平塚柔道協会の少年との国際交流が実現したのは、
私と平塚市在住の国際武道連盟極真空手清武会の西田幸夫代表との交流が下地にあったからである。
西田氏の道を求める真摯な姿勢と、弟子を育成する情熱は、柔道と空手の枠を超えて、大いに学びたいところである。
西田氏を語る前に、まずその師である極真空手の創設者・大山倍達氏について述べてみたい。
氏は大正12年生まれ、9歳から中国拳法を学び、24歳で戦後初の第1回全日本空手道選手権大会で優勝、
生涯を空手一筋に捧げることを決意、千葉県清澄山中で18ケ月の山篭り修行を行なう。
そのときの体験から「人間にとって最も怖いのは、飢えと孤独だ」と語っている。
その後、千葉県館山で牛と対決し、牛殺しの異名をとる。日本の空手代表者として柔道出身の遠藤幸吉と共に渡米、
全米32ケ所でデモンストレーションを行い、プロレス、ボクシングの挑戦を受け、全勝。
戦後の日本のヒーローであった力道山を倒した悪役のレスラー「赤サソリ」を、開始、数秒、一撃で倒したという。
デモンストレーションでは、親指と人差し指で10円硬貨を折り曲げたり、手刀でウイスキーボトルの首を切ったりする技は、
「神の手(ゴッド・ハンド)」と称賛された。握力は100kg以上あったと言われている。
以来、世界各国を回り、自らの空手を極真と名乗って、その普及に努め、国内で100万、
海外を含めると1,000万人の弟子を育てた業績は計り知れない。41歳で国際空手道連盟極真会館を設立、
多くの人材を輩出した。
ボクシング、柔道、沖縄空手、重量挙げなど、多種にわたって直接学び、格闘技、武術関係者との親交を深め、
71歳で逝去された。
数年前、Kワンの世界ヘビー級戦で優勝したブラジルのフランシスコ・フィリオなどは弟子の1人である。
現在の格闘技ブームは、大山倍達なくして語ることはできない。
さて、その大山門下に、昭和39(1964)年15歳で入門したのが西田氏であった。
弟子はまだ40人足らずのときであった。彼は素質と努力に物を言わせて、めきめきと頭角を現して行った。
10年後の第6回全日本の大会では、4位入賞という快挙を成し遂げ、その翌年、
第1回世界大会の代表の1人に選ばれていった。
西田氏は大山氏から大変に信頼が厚かった。ある時、大山氏から1本の電話があった。
「明日は何時に飛行場に来てほしい。3日空けてくれないか」と。西田氏は約束の時間に行き、行動を共にした。
帰りに大山氏から「君は一度も俺に、何処へ行くのかを聞かなかった。西田君は私の本当の弟子だ。」と言われた。
師匠と弟子の関係は、身体は異なっても、心の奥底で常に結ばれているのである。また、浅草にお供した時、
大山氏が汗をかいたので、ハンカチを差し出した。汗を拭いたあと、返そうとする大山氏に「館長のために用意したので、
そのまま使って下さい」と言った。大山氏は「ハンカチを贈るのは別れを意味する。君とは別れたくないからなぁ」と言って、
ハンカチを返したと言う。弟子として、西田氏はそれだけ重要視されていたのである。
(以下次号)
写真は、大山氏(右)と稽古に励む西田氏
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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