31.平塚柔道物語・その31
「彼本来の力を」朝酒井にかける恩師の想い
前五領ケ台高校教師だった多田功氏は、朝酒井(酒井泰伸)との思い出を語ってくれた。
平成16年3月、酒井君は平塚柔道協会の門をたたいた。その時、山城中学3年生だった酒井君のすばらしい体を見て、
小中学生の指導者である真田氏がささやいた。「多田先生、凄い宝石が入ってきましたよ」と。
当時、神奈川県の高校柔道大会は、あの有名な井上康生選手の母校、東海大相模高校をはじめ、桐蔭学園など、
私立の高校が上位を全て独占していた。それだけ私立高校が強かったのである。
そのような状況の中で、多田氏は県立である五領ケ台も上位に入り込むぞと決意。選手の育成に全力投球をしていたのだった。
その結果、関東大会にも出場できた。さらに2度目の大会を目指している時に、願い通り、酒井君は五領ケ台高校に入学し、
柔道部に入ってきたのである。
多田氏と酒井君との出会いについて、「有望な新入生獲得に苦慮していた私にとって、まさに、
棚から牡丹餅の心境であった」と語っている。
素直で真面目な性格の彼は、強い先輩達との激しい稽古や朝練にも耐え、着実に柔道の力を身に付けていった。
多田は彼に左の大外刈りと支え釣込み足の2つだけを教えた。それは巨漢でリーチの長い彼の特質を見て、
この2つで充分勝負が出来ると確信していたからである。
思い通り彼は、2年生になる頃には黒帯も取り、東海大相模や桐蔭学園の強豪選手と対戦しても、
ひけをとらないくらい成長していった。
そんな矢先、稽古中、膝を痛め、苦しさを訴えるようになった。結果、手術をし治療をしたのであるが、
しばらく本来の彼の力を発揮する場面はお預けになってしまった。それでも彼は、投げ出すことなく努力をし、
個人戦タイトルは逃がしたものの、3回目の関東大会出場のメンバーとして活躍。
その後のインター杯県予選団体3位や県新人団体3位入賞の立役者になったのだった。
それは、彼の恵まれた体と、誰にも負けない我慢強さがあったからである。それらの活躍ぶりは、
大学の先生にも知られるところとなり、3年生の10月頃には柔道でお世話になる大学も決まっていたのである。
ところが、酒井君の心は違っていた。多田氏に向かって、「先生すいません。
自分は相撲で勝負したいと思います」と酒井君は言った。多田氏は残念に思いながらも、
彼の固い決意の前に了解せざるを得なかった。
そして、2年ぶりに出会う。湘南高砂部屋後援会のパーティーであった。相撲界でへとへとになり、
疲れ切った酒井君の顔を思い浮かべながら心配していたところ、明るく元気な酒井君を見て、多田氏は安心し、
「自分自身、何か勇気づけられた、気分になった」と私に語っている。そして、「いよいよ彼本来の力を発揮し、
本当に強くなってほしい」多田氏は毎日心に祈っているという。
「必ず勝てる自分の相撲の型を作って!」と。朝酒井の前途を私も祈りたい。酒井君、頑張れ!
写真は、平成17年6月インター杯県予選3位入賞の時、
後列右側2番目が多田教師、3番目が酒井選手(朝酒井)
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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