平塚柔道物語その26
平塚柔道協会 会長 奥山晴治
2008年8月1日

26.平塚柔道物語・その26

「信頼と命綱」

 市内の浜岳中柔道部を訪問。うだるような暑さの中、ただ汗、汗、汗一色の練習風景である。 だが皆の表情は明るい。今年春に入部した女子の伊藤瞳さんは練習が毎日楽しいという。 3年生の鈴木あすみさんは、柔道を始めて自分に自信が持てるようになったと話す。

 その場に、昨年の卒業生である山口大河選手が夏休みで来ていた。彼は「ここがふるさとです」と語る。 先輩も後輩も、同級生も、真田先生を中心にして、皆家族という雰囲気がある。皆仲が良いのだ。

 壁に、市内コンクールで入賞した作文が貼ってあるのを見つけ、読んでみた。心に残る作品であったので、ここに紹介する。

 現在東海大学3年生の塩澤茜選手の中学3年生のときの作文である。

 中学に入り、最初にソフトボール部に入ったが、2年生の先輩達と歯車が合わず、1ケ月でやめてしまった。 そんな時、一人の体育の先生から誘いがあった。何部かというと柔道部だった。

 私が100mを14秒台で走ったのをすごくほめてくれた。そして「その脚力を生かしてみないか」と言われた。

 大野中学柔道部といえば、かなり強くて有名だった。練習のキツサははんぱじゃなかった。 そして、この日を境に私は柔道という底なし沼にハマッタのである。女子の先輩は一人もいなかった。

−途中省略−


 先輩達はいつも上位に名前があった。私もいつかはと目標は高かった。何しろ練習がキツイ。 周りの部活とは比べようがない。そしてひときわ柔道部は目立っていた。

 キツイ練習をも耐えられた理由。そこにはいつも応援してくれる人がいたからだ。親は応援に来ないことが多かった。 1年生の県選抜大会で優勝した時も、2年生の夏準優勝した時も、新人戦で優勝した時も、 3年生の夏決勝で負けて悔し涙を流した時も、関東大会で優勝した時もいなかった。

 勝っても負けてもよく泣いた。負けて自信をなくしていた私を、いつも2人の女子柔道部員が救ってくれた。 たぶんこの2人がいなかったら、柔道のおもしろさを知らないまま生きていたかもしれない。 勉強のできない私が、家で、学校で、胸を張っていられるのも、この2人のおかげだと思う。 仲間であるし、友達でもあるし、ライバルでもある。そんな仲間が、私は好きだ。

 「そこに仲間がいたから私がいる」。人間ってやっぱり1人じゃ生きていられないし、みんなそうだと思う。 私にとっての「君」は、先生だったり、先輩だったり、部員だったり、友達や親や私を応援してくれている人達。 なんかすごく温かくて、私はいろいろな人に支えられていることに、改めて気づかされました。

−以下略−


 2人の友人とは、現在神奈川大の青木愛選手と、日体大の仁藤愛選手のこと。 先生とは大野中時代の真田州二郎のことである。

 真田は語る。「他のスポーツは道具を使うが、柔道はお互い肌と肌でぶつかり、お互いに高め合う。 そのため、生徒同士の人間関係、教師と生徒の人間関係、信頼と命綱が強くなるのです」と。


写真は、浜岳中の真田州二郎教師と柔道部員たち


(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)

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