24.平塚柔道物語・その24
独自技を開発・新時代を拓く柔道家 平塚在住の 庄司武男
4月29日に日本武道館で行われた全日本柔道選手権。100kg超級で北京をめざした井上康生選手は準々決勝で敗れ、
引退を表明。ヨーロッパの柔道を人一倍研究して臨んだ21歳の石井慧(さとし)選手が優勝した。
この石井を2回戦で抑え込み、武道館1万人の観衆をあっと驚かせた選手がいる。
それは、平塚市在住の庄司武男という選手である。
彼は、昨年秋に平塚柔道協会の練習会に来て、小中学生に自分の発案した技を教えてくれた。彼の秘密兵器であった。
相手の帯を持ち、大きく体を引き込むと、そのまま抑え込みに入ってしまうという。人呼んで「庄司返し」と言われている。
この技が石井選手に見事にかかった。瞬間、あの大きな武道館内は「どー」とどよめきが起った。「あの石井が負けるぞ」と・・。
しかし、網にかかった魚は生きがよすぎた。網から飛び跳ねて出てしまった。有効をとれず、
結果としてはそのあとの石井の投げで敗退した。
しかし、多くの観衆の心に、「庄司返し」の印象は残った。テレビでも放映された。
その数日後、私は庄司選手と会う機会があり、お話を伺った。彼は昭和53(73)年に生まれ、
4歳から柔道を始めたという。水心塾という道場であった。
中学には柔道の部活はなく、バスケットボール部で活躍。3年生の時、水心塾の渡辺栄一先生が彼の根性を見抜いてか
「君はサラブレッドではない。駄馬だ!」と一括された。その言葉が彼の大きな転機になった。
「こんな楽しい好きな柔道を俺は誰にも負けたくない。駄馬なら人の何倍も練習するぞ」と心に誓った。
高校は柔道の強い埼玉栄高校に入学し、個人・団体共に全国大会に出場している。
大学は日大。卒業するや県警に就職。平成18(06)年度の全日本体重別大会では、100kg級で優勝する。
この時は石井選手は第3位であった。第2位になったA選手からは「あんたのは柔道ではない」と皮肉を言われたという。
確かに、庄司選手は過去に例のない独特の柔道をやる。ある時は背中を向けて相手を惑わす。
また、庄司返しを初めとして、立ち技も大内刈から相撲のやぐら投げを取り入れた技や、膝をついて投げる大腰など、
独自で開発した技が10を超すという異色な選手である。
いま、海外の柔道はどんどん進化し、勝つための新しい戦術が研究され、日本選手を苦しめている。
こんなはずではなかったと敗れる選手も多い。
かって戦国時代、無双の強さを誇った武田信玄の騎馬隊(馬と槍)は、織田信長の鉄砲隊に敗れている。
新兵器による合理的な戦術であった。
これからの日本の柔道も、新しい戦術・新兵器が必要な時代に入ったと言えよう。
その時代に合い、変化に対応できる庄司選手への期待は大である。
「これからはガチガチの柔道ではなく、肩の力を抜く柔道、常にピンチをチャンスに変える柔軟な柔道をやりたい」
と語る庄司選手の顔は、終始、笑顔で輝いていた。
写真は、庄司武男選手
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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