18.平塚柔道物語・その18
多くの人に愛された天才柔道家・原健二氏を思う
12月10日は、平塚市が生んだ天才的柔道家原健二氏の命日である。
戦後平塚の柔道に励む少年達のあこがれであった原氏は、昭和51年病のため39歳の若さでこの世を去った。
身長172cm、体重75kgの体格に加えて、好男子、柔道6段、
日本選手権大会の予選で神奈川県代表になったこともあり、
どんな相手でも正攻法で堂々と戦うくせのない柔道は多くの人に好感を持たれた。
そして、目を見張るような足技を初め、跳ね腰や体落しの大技は、見る人をうならせた。
市民大会のあとの黒帯10人掛けは、原氏の独壇場であった。東海大学の柔道部にも頼まれ、講師で通ったという。
昭和35年、私が平塚高校の主将の時に、幸運にも柔道部の顧問として指導に来ていただいた。
指導したあと、月末に講師に謝礼金が支給されたが、原氏はそのお金で私達柔道部員のためにすべて使ってしまった。
貧しかった私達は、カツ丼や天丼をよくご馳走になったものだ。
そんな気前の良さと思いやりに感動して、平塚柔道物語に書いたのが昨年の9月であった。
その新聞を自宅に届けると、奥さんは原氏の遺影に向って、
「お父さん、30年経ってもあなたのことを忘れないでいてくれた人がいたのよ」と涙声で語りかけた。
その時、私も思わず目頭が熱くなった。そして、亡くなったあとの状況を奥さんから伺った。
勤務先は東京税関であったが、その職場の仲間や部下の方々から「中学1年の息子さんが高校を卒業するまで、
毎月経済的援助をさせてください」と申し出があったという。人数も40人。
原氏の人望が如何に厚かったかということがわかる。
こんなエピソードも語ってくれた。
職場の中の1人で、原氏を命の恩人だと語るA氏の話である。
A氏は酒ぐせが悪く、やたら人に喧嘩を吹っかけたという。ある時、原氏と飲みに行ったが、
とんでもないやくざの男数名に喧嘩を吹っかけてしまった。やくざ達は怒って2人を取り囲み、
A氏をぶっ殺すから渡せという。原氏は黙殺して「彼を殺すなら俺を殺してからにしろ」とA氏の前に立ちふさがった。
A氏は恐ろしくて震えていたという。リーダー格の男は「あんたなかなかいい度胸をしているじゃないか。
ぜひ俺の組に入ってくれないか」と思わぬ展開になった。さらに、懐から30万円を出して懇願されたという。
原氏はその男にほれられたお陰で命拾いをしたことになる。もちろん、原氏はきっぱりと断ったとのこと。
女にほれられる男はどこにでもいる。しかし、男にほれられる男は少ないものだ。原氏は男の中の男である。
私もよく思うことだが、何か面倒を見てあげたという素振りを全く見せないところが原氏の魅力であった。
40人の他の仲間も、一人一人が原氏と心に残る人間的命綱があったと思われる。
奥さんは、1年間だけ皆様の真心を受けたという。こんなに人望があった人は私の知る限りではない。
多くの人に愛された柔道家・人間原健二氏を12月になると必ず思い出してしまう。合掌。
前列右側が原健二氏、左が現平塚柔道協会副会長の平野忠雄氏
後列左から2人目が筆者(昭和35年平塚高校体育館で)
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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