8. 平塚柔道物語・その8
アマレスの王者を破る(総合格闘技の大会で)真田州二郎氏
真田州二郎氏(現浜岳中柔道部顧問)が初めて就任したのが、平塚市の大野中学校であった。
平成9(1997)年4月のことである。
当時、柔道部員は17人いた。彼はその生徒たちが柔道をやっていることを、胸を張って言えるようにしたい、と思った。
さっそく他校との練習試合を組んだ。だがやって来たのは4人の生徒だけだった。
試合と聞いて逃げ出したのだ。部員たちは、全員中学から柔道を始めた。
多くはサッカー、野球など人気の部からはじき出された子供たちであった。
「受け身」はおろか「腕立て伏せ」のやり方から教えなければならなかった。
東海大相模高、東海大と柔道界のトップレベルに身を置いた真田は、その落差に途方に暮れた。
彼らには身近な目標が必要だった。強い先輩がいて、追付こうと後輩たちが頑張る。どんな競技もそういうものだろう。
「そうだ、自分が子供たちの最初の目標になろう」と彼は考えた。次の日から「腕立て伏せ」を教える。
選手たちの3倍も4倍も数をこなした。
「どうだ、すごいだろう」。鮮かな前転を、まるで体操選手のように何度も決めて見せた。
「すげー」生徒たちは目が輝いた。
その年の7月に教員の全国大会があった。彼は選手たちを呼び、試合をひとつひとつ見せた。
彼は神奈川チームの副将で活躍。ついに決勝となった。優勝は惜しくも逃がしたが、準優勝の栄冠に輝いた。
その真田教師の戦いぶりを生徒たちは自分のことのように喜び、僕も私も真田先生のように強くなりたいと心に誓った。
それだけではなかった。彼は、翌年の11月22日に町田市の総合体育館の第1武道場で開催された、
若者に人気の総合格闘技の大会に出場したのである。
そこで彼は、アマレスの日本王者(現在はプロレスラー)や、米軍海兵隊員を打ち負かし「柔道こそが最強」を、
身をもって示したのである。生徒たちは飛び上がって喜んだ。
平成11(1999)年1月8日発行の格闘技通信の雑誌には、次のように記されている。
「真田は準決勝でも、レスリング全日本ジュニア第1位の中邑真輔から横三角絞めで1本勝ち。
レスリング全日本2位、学生3冠王の実績を持ち優勝候補の筆頭であった矢野倍達は、
決勝で柔道家の真田州二郎の小内刈りを許すと、思わずレスラーの習性亀の体勢を取ってしまい万事休す。
スリーパーで破れた」と掲載されている。
身をもって示した彼の行動は、後に続く生徒の成長と活躍への指標となり、原動力となったのである。
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(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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