4.平塚柔道物語・その4
次の世代への柔道の普及
平塚柔道協会の第4代会長の小泉博氏が、9月1日91歳の生涯を終えた。すばらしい人柄であった。
「とっつぁん、とっつぁん」と皆から親しまれていた。若い時は横浜海軍で柔道をやり、
起重機というあだ名がついていたくらい、腕力もあり、173cm100kgという体格であった、とのこと。
左右の払い腰や内股、何でもこなした人であった。協会では、特に少年部の育成に努力され、
私も中学生のころからよく面倒を見ていただいた。
小泉会長の長男の弘徳氏も柔道を引継ぎ、親子2代で協会で練習する姿はほほえましかった。
彼は私より1級上の昭和16年生まれである。183cmの大きな体からくる内股や払い腰・大内刈はダイナミックであった。
逗子開成高校の主将、高校神奈川県代表で国体にも出場、しかし、大学を卒業すると、どういうわけか大下哲也という芸名で、
松竹の俳優になった。1970年、竹脇無我主演の姿三四郎の映画では、講道館の四天王の1人として活躍する。柔道のスタッフは彼が皆集めたとのこと。
テレビでも「青空にさけぼう」の中学校の先生、主役で出演し、活躍をした。現在は俳優業を休んでいるが、また出演するという。
この小泉氏と特に仲が良かったのが現在の石原康二朗会長である。この二人は、協会で共に汗を流した仲間であるが、
小泉会長の葬儀で久しぶりに会った。昔の青年時代を振り返り、お互いに年を取ったことを確認していた。
石原氏は、度胸は協会随一である。試合も本人の気迫で相手を圧倒してしまう。練習よりも本番の方が強かった。
県民大会にも40代になってから選手で出場。他のチームからも恐れられた存在であった。
さらに、石原氏の長男康平氏も柔道を引き継いだ。彼は平塚市が県民大会で3位になったときの代表選手であり、
市民大会有段者の部でも優勝している。
現在協会の理事として少年部の指導担当をしているが、さらに康平氏の長男長女が柔道を引き継ぎ、
共に活躍中だ。まさに石原家は3代に引き継がれている。
私も自分が面倒をみた子供達が試合に出場すると、胸がどきどきする。そして勝利すれば感動する。
これが親子となると、感動が倍加するだろう。
私の父も柔道をやっていた。「試合を見に来ないで」と言ってもこっそり見にきていた。子供はかわいいものである。
さらに孫もかわいい。
柔道も2代までは続くが、3代までは少ないものだ。3代続けた石原会長は幸福者であると同時に、
身をもって柔道を普及させた一人ではないか。
写真は昭和35年当時(協会柔道場で)
前列右から2番目筆者、中央石原康二朗会長、
左から3番目小泉弘徳氏
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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