1. 平塚柔道物語・その2
平高柔道部時代の仲間達
柔道といえば、戦後あこがれのスポーツであった。私も黒帯の柔道着を片手に歩いて行く有段者の姿をみると、
そのかっこよさにあこがれ、いつか自分もそのように強くなりたい、と思ったものだ。
アメリカに戦争で負け、日本人は背の高いアメリカ人にコンプレックスを持っていた。そんな時代に、
富田常雄著の姿三四郎が映画化され、体の小さな人が大きな人を投げるといった柔道の魅力が人気を呼んだ。
私もその魅力に取りつかれた一人で、中学2年から平塚柔道協会の道場に入門、おかげで、
相撲などは中学時代では誰にも負けなかった。
昭和33年、平塚高校に入り、即柔道部に入部、高校1年で初段。2年の終りには2段を取った。
当時同学年で共に汗を流し、練習した仲間に、平塚市の現教育長の宮川利男君がいる。かれは柔道初段であったが、
背の高い人には背負い投げ、低い人には内股で、よく投げ飛ばした。
高校2年の秋、平塚高校で行われた県下体重別柔道大会で、2人は平高Aチームとして出場、1チームは5人。
体重50kg以下に宮川利男君。55kg以下に3kg減量した私が出場。60kg以下では先輩の仲手川英治氏、
65kg以下では平元修君、65kg以上は主将の飯田茂章氏が出場。
主将の飯田は「宮川と奥山は必ず勝て!後は俺が勝つ」と言ったが、
確かに飯田氏は「この一番」になればなるほど強さを発揮した平高の猛者(3段)であった。
結果は、この3人が必ず勝つことにより決勝まで進出し、惜しくも南高校に敗れたものの、面目は充分保つことができた。
そして、技術優秀選手10人に、宮川君と私が選ばれ、表彰を受けた。
続いて翌年、私が主将のとき、同じく宮川君50kg以下、55kg以下はひとつ後輩の中戸川敏男君(現協会理事)が出場、
私は60kg以下に、65kg以下では平元修君(副主将)、65kg以上では平木敏勝君(元平塚高校教論)が出場。
中戸川君は私と同じ体落とし、平元君が釣り込み腰、平木君が内股で活躍。慶應高校などを破り、見事決勝まで進んだが、
当時急速に強くなってきた日大藤沢高校に惜しくも負けた。当時の平高新聞には「再度優勝を逸す」と見出しに書かれた。
青春時代に柔道の練習や試合で共に汗を流した仲間との思い出、友情、先輩後輩のつながりは、今でも続いている。
同じ仲間の現教育長宮川君の教育長室に私も時々伺うことがあるが、宮川君との友情はいまだに変わらない。
彼の謙虚な人柄や、影にかくれたねばり強さと人間力は、柔道の時代に身につけたものではないだろうか。彼の友情に感謝。
写真は、平高の柔道部時代
後列右平元修、左平木勝敏、
前列右中戸川敏雄、左宮川利男の諸氏。
中央が筆者。
(HIRATUKA 市民ジャーナル 連載記事より抜粋)
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