嘉納治五郎の柔道
高橋  豊(平塚柔道協会理事兼事務局次長)
1999年8月28日

  平塚柔道協会は、太平洋戦争直後にGHQ(連合軍総司令部)の指示ですべての武道教育が一時禁止され、その解禁の兆しを待って、昭和24年に新たに創設してから50周年を迎えました。柔道とは明治15年に嘉納治五郎師範が創始した講道館柔道であるとされています。いま平塚柔道協会の記念すべき年に、柔道の歴史を振り返り、柔道の本質とその求めるべき道を考えてみるのも大切と思います。

1.嘉納治五郎の生い立ち
  柔道の祖である嘉納治五郎は万延元年(1860年)に兵庫県御影で生まれました。その数年後に明治新政府が樹立され、11歳の時に東京へ出て漢学を修めました。12歳で儒教(十八史略や国史略等)や書道を生方桂堂に付いて学び、14歳で育英義塾(外国語学校)に入学し、蘭人ライや独人ウェッセル等の指導で英語や独語を学びました。この頃から日本の古来の柔術に興味を持たれたようです。

  柔術の師を探し求め、東京日本橋の大工町に住む天神真揚流柔術の福田八之助に入門したのは18歳の時でした。天神真揚流柔術は、当て身や絞め技や間接技等を中心にしたかなり荒っぽい柔術でありました。

  明治11年、嘉納治五郎19歳の時に、東京帝国大学文学部に入学し、史学哲学及び政治学専攻の第一科にて西洋哲学や理財学等を学び、西洋の功利主義や実利主義の思想を修得、さらに横山由清等に和文学、三島毅に漢文学を学びました。同時に二松学舎塾生となり夜間に漢学を学んでいます。

  20歳の時、福田八之助が亡くなり、天神真揚流三代目の磯正智の道場に入門しています。22歳になると、磯正智が亡くなり、起倒流柔術家の飯久保恒年に就いて柔術の修行を続けました。起倒流は天神真揚流と異なり、腰技や捨身技等の投技に優れた柔術でした。そして、東京帝国大学哲学科へ学士入学し、中村正直等に漢文学やフェノロサ等の西洋哲学を学んでいます。23歳の時、下谷区北稲荷町の永昌寺内に住み、本堂の一部を道場にして、5歳年下の書生の富田常次郎を相手に柔道の稽古を始め、嘉納塾を起こし講道館を開設したのです。この時、嘉納塾は弘文館という英学塾を同時に経営しました。

2.嘉納治五郎の柔道
  嘉納治五郎は、天神真揚流と起倒流柔術の長所を採り入れ、幼少の頃から学んだ東洋的な儒教思想に西洋の功利主義思想及びスペンサー等の智育・徳育・体育の教育論を基礎とする精神的基盤を柔道に組み入れたのです。講道館への最初の入門者は明治10年から嘉納家の書生をし、治五郎の稽古相手であり技の研究の実験台にされた富田常次郎でありました。記録によると、常次郎の講道館入門は、明治15年6月5日になっています。8月20日には姿三四郎のモデルになった西郷四郎を入門させています。

  道場は下谷永昌寺から、南神保町を経て麹町へ、明治19年になると富士見町へ借家を転々としました。一方、嘉納治五郎は学習院の教授となり、明治22年から24年まで欧州留学、帰国後学習院を辞職し、文部省参事官となったが、明治24年9月には九州熊本の五高校長(当時熊本高等中学)を引受け、柔道場瑞邦館(熊本講道館)を開設しています。しかし、英学塾の弘文館は治五郎が欧州留学する時に閉鎖やむなきに至ったようです。

  その後、嘉納治五郎は、再三にわたり海外へ出かけていますが、柔道の世界的な普及を願っていました。嘉納治五郎の柔道に関する武勇伝は極めて少なく、最初の洋行の時、船の甲板上で力の強い巨漢のロシア人を相手にし、怪我をさせぬように鮮やかに、かつ優しそうに投げ飛ばしたという逸話があります。晩年には、当時の外務省の人が嘉納治五郎に対して、「ご年輩ですから、今では柔道の実力が二段程度ですかネ!」と訊ねたそうです。この時に返事は「いや、私は今でも誰にも負けはしない。やはり私か最高段ジャヨ」と答えたということです。嘉納治五郎の気概を表すものとされます。

3.講道館柔道の目的
  講道館柔道の目的について、嘉納治五郎は従来の柔術と比較して述べています。それによると、柔術の元来の目的は、勝負の法を練習することにあり、その仕方が流儀により投げ殺すことを目的にしたり、当て殺したり捕り押えることを目的にしていると捉えています。これに対して、講道館柔道は、体育と勝負と修心の3つのことを目的とし、この3つを全く離して別にすることのできないものとしています。そして、体育の目的は、筋肉を適当に発達させ、体身を壮健にし、力を強くして、身体四肢の働きを自在にすることにあるとしています。このために、講道館柔道では如何に良い手でも危険の恐れあるものを省き、できるだけ一様に全体の筋肉を働かせるように工夫した技や練習方法になっています。勝負については、人を殺そうと思えば殺すことができ、傷めようと思えば傷めることができ、捕らえようと思えば捕らえることができ、相手が自分にそのように仕掛けてきた時にこちらでそれを能く防ぐことのできる術の練習方法とし、今日の柔道の勝負(試合や乱取稽古)より広い意味があります。

  勝負を決する方法としては、投技(手技、腰技、足技、真捨身技、横捨身技)と固技(抑込技、絞技、関節技)と当身技(突き、蹴り)の3つがあり、投技と固技を中心に乱取稽古をし、危険な当身技は形により練習すべきとしています。修心は、柔道修行により、徳性を滋養すること、智力を練ること、柔道の勝負の理論を世の百般に応用することができるとしています。徳性の滋養とは柔道修行が愛国の精神・勇壮な性質・親切なる心・礼儀の作法・自制の習慣等を身に付けることです。智力を練るとは柔道修行による観察・記憶・試験・想像・言語等に大きな影響を与えることです。世の百般への応用とは、自他の関係を見て先を取り熟慮断行し、勝っても勝ちに奢ることなく、負けて負けに屈することなく、安きに油断することなく、危うきに恐れることなく、唯々一筋の道を歩むことが社会生活に応用できるとしています。

  人間形成における体育と勝負と修心の目的を達成する方法として、講道館柔道は乱取と形の二代練習方法が採用されています。投技や固技は体育法の立場から、襟と袖を持つ組み手による乱取法を編み出し、危険な当身技は形の方で練習させました。「極の形」は天神真揚流の当身技を真剣勝負の形にしたものとされています。また、「形」の目的には美的情操が必要とし、「柔の形」や「古式の形」を生み出しています。そして、互いに組み合った時の技には投技と固技を乱取によって練習させ、離れて武器に対した時の技には当身技と関節技を形によって練習すべきとしました。さらに、柔道の原理として、自然体の理、柔の理、崩しの理があり、組む体勢から相手を崩して技に導く投技と固技の柔道乱取法と離れた体勢から相手を崩して技に導く合気道乱取法を取り入れています。その典型として、肘の関節技は両方の乱取に使用できるとしています。このような講道館柔道の技術面は明治20年前後にその大要が確立したと考えられています。同時に思想面にも研究と工夫がみられました。その代表的な考え方は「精力善用」と「自他共栄」にあります。

4.講道館柔道の理念
  柔道は心身の力を最も有効に使用する道であるとされ、「柔能く剛を制す」が柔の理と言われています。つまり、柔の理とは、相手が一定の力で押して来る時は、自分は之に逆らわずに順応して退くのみでなく、その押して来る力を利用し、さらに自分の方へ引付けると、相手が受身になり前方へ体が崩れ、倒れ易くなり、そこへ適切なる技を施すことで、容易に相手を投げることができるようになります。また、この反対に相手が引いて行く場合には、自分がその力に順応して付いて行くのみでなく、引かれる以上に相手を押せば、相手が後方に体を崩して釣合いを失うので、そこへ少しの努力で技を加えると、相手を投げることができるとしています。しかし、相手が動かない時や自分の動きを相手に完全に封じられた場合には、必ずしも柔の理による合理的な方法で対応できるとは限りません。この場合でも、相手を動かしたり、自分の体を自由にする最も有効なる方法が存在します。何れも筋肉の動きに関係しますが、精神の上においても最も有効な働きが求められます。広い意味で考えるならば、柔の理だけでなく、攻撃と防御の方法として、精神面を含む心身の力を最も有効に使用することになるのです。

  嘉納治五郎は、この柔の思想をさらに進め、社会生活に応用することの可能な「柔の道」を説いていったのです。そして、「心身の力」を「精力」という文字にし、「最も有効に使用」を「最善活用」に置き換えていきました。「最善」の意味は人間の行いのすべては善を目的にしなければならないので、善を目的に最も有効に使用するとして、「精力善用」という柔道の理念を生み出したのです。

  「自他共栄」は、仏教思想に基づき、自分にも他人にも利益をもたらすことを意味します。そこには自分にも他人にも利益をもたらす賢い人間の存在が描かれ、自分を高めることのできない人間は、他人に対しても良いことをすることができないという考え方があります。一般には、善良な人間は、他人のために自分の利益を犠牲にするが、他人に対しては良いことを行って、自分のことはどうでもよいとしてしまいます。しかし、嘉納治五郎は、何を考え何をすべきかということが問題になった場合、自分で学び、自分で研究し、自分で答えを見出しなさいと教えています。このためには、あまり多くの本を読むべきでなく、本当に良い本を読み、その本の細かい所まで注意深く覚えなさいと言っています。

  特に、歴史は、多くの人間が良い行いをしようと考えたが、自分自身が良い行いをしようとは考えなかったということを教えていると指摘しています。その事例に、18歳の若さで皇帝になったローマ皇帝の教訓があります。この皇帝は美術や音楽の心得があり、将軍達の血に塗られた栄光を芸術の勝利に変えようとしました。ローマを文化的・文明的な都市にしようとしたのです。虐待された奴隷は判事に訴え出て、虐待の証拠を見せれば、判事の保護が受けられるという法律も制定しました。この場合、判事は奴隷を良き主人に売り渡さなければならないという命令を下すことになっていたのです。若き皇帝は多くの奴隷の人生から拷問の恐怖を取り除いたのです。このことは確かに良い行いであったかもしれません。しかし、10年後には、皇帝が自分自身の心の内部を高める努力をしなかったために、退廃的な考えから、自らが拷問を行うようになったのです。

  嘉納治五郎の考え方は、他人に利益をもたらすと同時に、自分も何かを得なければならないということを重視しているのです。そして、自分の中にそのことを見出し、自分の中でそのことを高め、知性も自分の中で高めるべきであるとしているのです。柔道の修行は、攻撃と防御の形の中から、勇気・意志・知性等を高める手段であるとしています。さらに、柔道は日常生活に応用できるものを身に付けてくれるはずであるとし、柔道で身に付けたことを日常の生活に生かすように学ばなければならないとしているのです。

5.嘉納治五郎の最期
  嘉納治五郎の柔道は、「精力善用」と「自他共栄」を指導理念とした文武両道にあり、文化や文明と闘う意志や勇気を武道の力と合体させ、善良な人格・洗練された文化・広い視野と知性の明瞭さを求める「文」及び闘争心・意志力・集中力・危機に陥った時の冷静な力たる「武」に基づく、文武両道を柔道を求めたといえます。特に、善について「善とは、社会生活の存続発展に適う行いであり、これを妨げるものは悪である。社会生活を存続発展せしめるためには、相助相譲・自他共栄がその根本原理というべきで、これに精力善用の原理が加わって、初めて在来の伝統的な道徳が合理的に説明できる」と強調しています。嘉納治五郎は、東京オリンピック誘致のため、昭和13年に主席全権としてカイロ会議に出席し、誘致に成功してアメリカ経由で帰国する途中、太平洋上の氷川丸船中において、5月4日に急死しました。この東京オリンピックは第二次世界大戦のために中止されましたが、79歳の偉大なる生涯でした。

6.むすび
  最後に、この内容は以下の資料を参考にしつつまとめました。引用した個所は多々ありますが、柔道のさらなる発展と普及を願って、お許しを頂きたく思います。

(参考資料)
  1. 藤堂良昭著、「嘉納治五郎の柔道観についての一考察」、日本武道学研究渡辺一郎教授退官記念論集、pp.144-169、島津書房、1988.
  2. 横山健堂著、「日本武道史」、島津書房、pp.519-526、1991.
  3. Trevor Pryce Leggett,「The Spirit of Budo(日本武道のこころ)」、サイマル出版会、pp.110-135、1993.

    (平塚柔道協会創立50周年記念誌より抜粋)

戻る