この座談会の記録は平成11年3月20日に小泉 博顧問(元平塚柔道協会会長)の
お宅を秋山理事と事務局高橋が訪ねた時の談話を平塚柔道協会としてまとめました。
- T(高橋):
- 平塚柔道協会が設立して50周年を迎えました。本日は平塚柔道協会が発足す
るまでとその頃の昔話など、小泉先生のお話を頂けたらと思います。どうかよろしく
お願いします。
- 小泉顧問:
- そうですか50周年になりますか、おめでたいことです。私も80歳になり昔
のことはかなり忘れてしまいました。おとなしく余生を送りたいのですが、何とか思
い出しながら記憶を呼び戻したいですネ!
- T:
- ここに当協会の山本さんが平塚柔道の昔の出来事をまとめてくれた貴重な資料があり
ます。これをとっかかりにして小泉先生のご記憶を辿れるといいですネ!
この資料によると、大正3年(1914年)に天神真揚流の西村道場(清修館)が平
塚新宿に開設しています。天神真揚流3段の西村文治郎さんです。天神真揚流という
と、講道館柔道の原型になった2大流派の一つですネ! 間接技や絞め技等の寝技の
基本になったようです。これに起倒流の立技が加わり、講道館柔道が確立したと聞き
ました。
- 小泉顧問:
- そこで思い出しました。横浜に村田さんという人がいました。講道館柔道8段
になった温厚な人でネ、三橋道場の三橋さんの後見役であり、立技専門の人です。西
村さんと反対でネ、西村さんは寝技が専門です。西村道場は田んぼの側にあり、私も
何回か稽古にいきました。私は寝技が嫌いでネ、村田先生のところへ無いお金を払っ
て横浜まで通いましたナー。私は平塚で三橋さんを知らなかったのですが、身体が大
きく強かったので、三橋さんと合流しました。
- T:
- 三橋さんが平塚に道場を開設したのが、昭和8年(1933年)です。相洋柔道館で
す。当時、三橋 馨さんは27歳で講道館4段ですネ!
- 小泉顧問:
- いや、どっちでもいいが3段だったと思います。でも三橋さんは立技も強かっ
たが、寝技も強かったです。どちらもできる人でした。その子弟は立技と寝技を半々
に教わっています。三橋道場は十畳なかったと思います。比較的狭く、立技が思うよ
うにならないので、どうしても寝技になるんです。場所は厚木道の材木置場の近くで
した。
- A(秋山):
- 秋山材木屋の裏ですネ!
- T:
- その少し前、大正15年(1926年)に加藤喜録さんが柔道場を開設しています。
昭和元年ですネ! 当時、33歳で講道館5段だったようです。
- 小泉顧問:
- うん、自分の家に確か8畳程度でした。周りは田んぼだった。その頃、弟の賢
蔵さんと幸蔵さんがよく来られました。この二人は体が大きく強いんだ。当時は平塚
の柔道は盛んでなかったが、次第に平塚にも優れた柔道家がいるということで柔道の
メッカになった。
- T:
- この頃、大川太郎さんが柔道をやられていましたネ!
- 小泉顧問:
- 大川さんは寝技が専門でしたネ! 体が小さく立技は強くなかったようでした
が、確か平塚農業学校でした。
- A:
- 大川さんは平塚農業学校で講道館初段を取得したようです。平農からの最初の有段者
ですネ!
- T:
- 大川さんが初段を取られたのが大正9年(1920年)ですネ!
- 小泉顧問:
- そうか、大正9年には初段か、私よりかなり年上だったようだが、昔の平塚の
柔道は立技が強かったが寝技も強かったネ! 当時、関東は立技、関西は寝技とされ
ていましたネ!
・・ ・・ ・・ ・・
- 小泉顧問:
- それと当時、確か平塚に剣道の先生がおりました。柔道場へ行く途中に道場が
あり、照木先生といいましたか、この田んぼ道が寂しい所でしたネ!
- A:
- 照木捨五郎さんですネ! 明石町通り辻に剣道場があり、そこで柔道も教えていたよ
うです。
- T:
- ところで、小泉先生が柔道を始めたのはいつ頃からですか?
- 小泉顧問:
- 昭和6年頃からかナー、14〜15歳頃だと思います。私は小さい頃に生意気
でして、チンピラの仲間に入りそうになった時期があり、叔父の所へ来いということ
で、須賀の家にやっかいになりました。
- A:
- 小泉さんは旧姓が佐藤でしたネ 三橋道場に佐藤 博4段の名前があります。
- 小泉顧問:
- 後に小泉家に婿養子に入ったのです。須賀では相撲仲間の長谷川徳次さんと知
り合いました。やがて、柔道場ができ、柔道をやってみようということで道場へ通い
始めたのです。長谷川さんは力が強く、寝技をするのを皆んな嫌がりました。立技は
出足払いがありましたが跳腰一筋でしたネ! 左右の跳腰です。そして、私は見様見
真似で跳腰ができ、払腰ができ、ケンケンの内股ができるようになったのです。その
内、長谷川さんの足が遠のき、私が頭角を顕しまして、昭和9年に海軍に入隊したの
です。
- A:
- 海軍はどちらでしたか?
- 小泉顧問:
- 水兵です。ほとんど艦船の上であちこちへ、上陸しても何時間でもなく、悪い
ことさえしなければよかったのです。戦争前はのんびりしたものでした。
- T:
- 海軍でも柔道をやられたのですか?
- 小泉顧問:
- 海軍は柔道が盛んでした。甲板の上にマットを敷き、毎日が柔道です。私は柔
道で進級したようなものです。横須賀は海軍の影響で柔道の強い人がいましたネ、戦
後の猪熊 功さん(昭和34,38年全日本柔道選手権大会に優勝)はそこで育って
います。山下泰裕さん(昭和52〜59年全日本柔道選手権大会8年連続優勝、第2
3回オリンピックロサンゼルス大会柔道競技無差別級優勝など)を指導した佐藤宣践
さん(昭和51年全日本柔道選手権大会に優勝)は猪熊さんに教わっています。
- T:
- 猪熊さんは亡くなられた原 健二さんや副会長の小林富雄さんと同じ世代ではないで
すかネ! また、佐藤さんは私と同じ世代だったと思います。
- 小泉顧問:
- そうですか、当時は神奈川県に柔道の有名人が3人いました。平塚の加藤さん
横須賀の田中さんあと1人ちょっと忘れました。田中さんは講道館柔道8段になり、
横須賀田浦の薬屋さんでした。何回か田中さんに柔道を教わりました。私は胃の調子
が悪くなると、その薬屋さんの調合した薬を飲んでいたのです。良く効きましたネ!
今でもその娘さんを知っています。
- A:
- 私は子供の頃に柔道を習い始めましたが、その頃、道場に行くと柔道の先生が多かっ
たですネ! 佐藤義光さんや接骨医をしていた上倉さんがいました。
- 小泉顧問:
- そうそう、先生が6人で生徒が3人なんていうこともありました。
- T:
- 平塚柔道協会が昭和24年に発足していますネ! 確か12月頃と聞いています。
- 小泉顧問:
- 戦前にも協会らしき組織がありました。平塚市は介入していなかったです。や
はり、加藤喜録さんが中心でした。何しろ加藤3兄弟は強かったです。立ち向かうと
足腰が立たなくなるまで叩き付けられ、這って帰ってきましたネ! 鬼みたいな強い
存在でした。長男が喜録さん、次男が賢蔵さん、三男が幸蔵さんです。
- A:
- 加藤幸蔵さんは二宮にお住まいてしたネ! 東海大学の柔道教師もされたと聞いてい
ます。
- 小泉顧問:
- 私は加藤喜録さんと性格的に合わなくてネ! いろいろありまして、柔道協会
を一時やめてしまったのです。そうしたら、喜録さんがお亡くなり、柔道協会が大変
だということで、今の事務局長の加藤利雄さんと事務局次長の八田厚生さんが私の所
へ訪ねてきたのです。喜録さん亡き後、平塚柔道協会をどうすべきか、加藤君と八田
君の功績は大きいですネ!
- T:
- 平塚柔道協会は加藤喜録さんのワンマン経営だったようですネ! 初代会長は鈴木亀
次郎さんという方で県会議員もなされたなかなかの人だったようです。その時、加藤
喜録さんは副会長のようでした。
- A:
- 鈴木さんは平塚柔道協会のスポンサー役だったようです。実権は加藤さんが思うよう
になされていたのではないでしょうか、いずれにしても、そのことか平塚の柔道を盛
んにしたのかもしれませんネ!
- 小泉顧問:
- 鈴木さんのご子息が平塚柔道の世話になっことがあり、その縁で鈴木さんが平
塚柔道協会の会長を引き受けて下さったようです。ご子息は残念ながら戦死なされた
ようです。鈴木さんのお宅を訪ねるといつも加藤喜録さんがおりましたネ! また、
鈴木さんの家の裏に佐藤義光さんが住んでおり、義光さんは加藤幸蔵さんと同級生で
友人だったようです。その内、上倉さんが平塚柔道協会に入ってきたのです。講道館
5段の上倉さんは傷痍軍人でしたから強い稽古をできませんでしたが、初段以上の力
がありました。また、後に原 健二君が強くなったのは佐藤義光さんがいたからでし
ょうネ! 原君の体落しは義光さんのとそっくりです。原君が東京税関に就職し、東
京税関の柔道部の体落しは義光さんから引き継がれたといえます。この体落しは見事
でした。しかし、原君は講道館5段になりましたが、若くして亡くなりました。おし
い人材でした。
- A:
- その頃、講道館3段クラスが第一線で活躍していました。4段以上になると、そろそ
ろ引退かナーという状況でしたネ!
- T:
- 私は昭和36年頃に箱根町柔道大会に出場したのです。初めての試合でしたが、勝っ
たことは忘れませんですネ! その時、団体3位になったように記憶しています。当
時、原さんにはかなり強く扱かれたことを覚えています。社会人になって、柴山先生
という寝技の強い先生にも扱かれました。この先生は全日本にも出場し、先程の猪熊
さんに寝技を指導したことのある人です。
- 小泉顧問:
- 何しろ昔は、見付台武道場ができるまで、満足な道場が無かった時代です。最
初は丁寧に藁莚を敷きその上に畳を乗せて道場にしたが、その内、床直接に畳を敷く
ようになりましたネ!
- A:
- この時、半分が床板でしたから、投げられると床板に叩き付けられることがありまし
た。痛いと言えば何を言うか、我々は庭で稽古したものだと怒られました。50年と
いうのも過ぎてしまうと早いものですネ!
- 小泉顧問:
- この柔道協会が続いているのも加藤君や八田君のような人が外部との接触を
処理してくれたからでしょうネ! まあ、余り稽古熱心ではなかったかもしれませ
んがネ! この意味で彼らは大功労者ですヨ!
- A:
- 今、若い人でそのような動きができる人は少ないですネ!
- T:
- これからは世代交代しなければなりません。平塚柔道協会がどのような形で引き継が
れていくのか大きな問題です。
- 小泉顧問:
- 平塚柔道協会は宮代甚三さんが会長になって持ち応えたのですが、やがて宮代
が老いのため退くことになり、私のところへ回ってきたのですネ! 一期で退こうと
考えていたが、何期やっても辞めさせてくれないのです。ところで、今の会長は猪股
さんですネ、その前は原田さんでしたか、原田さんはどのくらい会長だったかなァー
- T:
- 原田さんは1期2年でした。その後、現在まで有段者会会長をされています。昔は有
段者会会長と平塚柔道協会会長は兼任していたのですが、この時、分離しています。
- A:
- 会長人事はいろいろとあって難しですネ!
- 小泉顧問:
- 会長はボランティアですヨ! 冠婚葬祭だって自腹の付き合いが増え、大変で
す。とはいっても平塚で活躍してきた人に後継者を託したいです。
- A:
- 今の猪股会長は4期目ですネ!
- T:
- ところで戦後の一時期にGHQ(連合軍司令部)が日本の武道を禁止したことがあり
ましたネ! 確か現在の総合公園の体育館にある武道場建設を平塚市長へ陳情に行っ
た時、長谷川徳次さんが当時のよもやま話の中で、厚木のGHQへ乗り込み、絞め技
や間接技の模範演技をしたと言われていました。
- 小泉顧問:
- うん、そんなことがありました。長谷川さんはバス会社の副社長をされ、平塚
柔道協会は陰ながら多大の支援を頂きました。亡くなられた時、私は出張で見送れな
かったが、須賀に行くと必ず長谷川さんのお墓に行きます。長いお付き合いでした。
私が若い頃、花月園での柔道大会に長谷川徳次さんと試合に出て、相手を投げた時、
相手の膝の上に乗って肋骨を折ったことがありました。今もその傷が痛むと思い出し
ます。よく二人であちこちの個人戦の試合に出かけました。横須賀へもよく行きまし
た。どうしても勝てない人もいました。
- T:
- 現在の稽古場では、女子の柔道家が多くなりました。また、平塚柔道協会に東海大学
OBの優秀な選手が入ってきており、活発になってきています。指導方法もかなりし
っかりしています。
- 小泉顧問:
- 以前に平塚工業高校の柔道部の稽古を見させて頂いたことがあり、そこに東海
大学の初段の女子選手が来まして、高校の黒帯の選手がすべて敵わなかったです。見
直しましたネ!
- T:
- 今年の8月に平塚柔道協会主催の恒例の少年柔道大会があり、これを50周年の記念
大会とし、女子柔道を含め、東海大学の柔道選手に模範演技をお願いしようと考えて
います。
- 小泉顧問:
- しかし、今の学校柔道は昔と変わってきました。親の姿勢にも問題があるかも
しれません。
- T:
- 柔道をやりたいという子供達もいるのですが、学校側が指導者の不足ということで、
クラブ活動を廃止しているとも聞いています。どうも柔道だけでなく、サッカー等の
花形スポーツにもみられるようです。現在、柔道は大野中学や五領ケ台高校で優秀な
東海大学OBの若い先生が活躍しています。
- 小泉顧問:
- 時代が変化していますネ! 柔道も昔と変わってきています。これからは若い
人の時代です。新たな活躍を期待します。
- A:
- 小泉先生、本日は長い時間を頂き、ありがとうございました。貴重なお話を頂けたと
思います。ここでの内容は50周年の記念誌に載させて頂きます。よろしくお願いし
ます。お疲れになったと思いますが、ほんとうにありがとうございました。これから
もお身体を大切にして、平塚柔道協会を見守って下さい。
以上
(平塚柔道協会創立50周年記念誌より抜粋)
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